これまではフィールドワークが多かったのですが、本日は午前午後とも座学。
講義開始10分前にDRから配布資料等の説明。
また今回、2班の谷さんから各班の班名を書いた団扇4枚の贈呈あり。まち歩きの時の誘導用として便利。有難うございました。
加畑先生は文章シリーズ3年続いての登場。今回で最終。熱が入ります。
40年間のこれまでの雑続経験をもとに次の4つの柱でお話が進められました。
1.発見と思考のある文章
2.紋切り型を避ける
3.生き生きと書くためにはどうすればいいのか
4.向田邦子の文章を味わう
1.発見と思考のある文章
教材①体験をもとに具体的なアイデアを書く
朝日新聞の紙面企画で、NMB48メンバーの出口結菜(でぐちゆいな)さんが小論文(200文字以内)に挑戦した顛末を紹介。お題は「本を読まない人に読書の面白さを伝えてみよう」
果敢に小論文に出口さんが挑戦するも加畑先生から「言葉遣いが堅苦しい、面白くない」また「出口さん自身の具体的なエピソードが盛り込まれていないので、印象に残らない。」と酷評。
違う価値観 共感するって大事
その後、出口さんは記者のインタビューに「自分とは違う価値観に共感できていなかった」と縷々として答え、これに加畑先生からのコメント「堅苦しくて平板な内容の小論文と違い、出口さんの個人的な体験と人柄がにじみ出て生き生きとしている。」と挽回。
2.紋切り型を避ける
教材②「心でもてなす大阪のホテル」
新聞読者(高知県の介護職員)からの投稿を紹介。
大阪市内のあるホテルを時々利用するが、静かで、客室、料理など素晴らしいが何よりスタッフの接客がいい。こちらにただ泊まるだけでなく明日からの糧になる心地よい刺激を与えてくれる。
「おもてなし」という言葉があふれ外国人が増えてくる中、日本ならではの心と心の交流を願う。
(影の声)
以上の投稿を紹介されましたが、もうひとつ理解できませんでした。ただ「日本ならでは」の件は、なんとなく分かったような曖昧さがあり、そこが落とし穴だということは理解できました。
3.生き生きと書くためにはどうすればいいのか
教材③強盗に入られた作家・佐藤愛子さん語る
作家の佐藤愛子さんが1975年51歳のとき自宅に強盗に入られ、5000円奪われました。
そのときの体験談をさすがに生き生きと表現されています。
その部分を紹介します。
この事件の少し前に、美人作家を狙う強盗が紙面をにぎわしていましてね。遠藤周作さんから電話があって「君のところに強盗は入ったかい?」と言うの。「いや、うちには来ない」と答えたら、「君はついに強盗にも見捨てられたか」と大笑いしたんです。遠藤さんとのやりとりを聞いていたのでしょう、ニュースを見たという北杜夫さんから電話がありました。「おめでとうございます!」
作家 佐藤愛子さんのプロフィール
大阪市生まれ、西宮育ち、甲南高等女学校卒業。佐藤紅緑を父に、サトウハチローを兄に持つ自身の家庭の壮絶な姿を描いた大河小説『血脈』や、ベストセラー『九十歳。何がめでたい』などの軽妙洒脱なエッセイで知られる。1969年直木賞受賞。今年11月5日で99歳を迎える。
お元気でご活躍 素晴らしい!
4.向田邦子の文章を味わう
教材④エッセー「ゆでたまご」
加畑先生は最後に作家向田邦子の作品「男どき女どき」(新潮社文庫)の一部を紹介。
「ゆでたまご」
向田邦子さんが小学校4年の時、クラスに足の不自由なI(あいさん)にまつわるエピソード。
I(あいさん)は足だけではなく片目も不自由で背もとびぬけて低く、勉強もビリ。生活も貧しい。性格もひねくれていたため、先生や、みんなから疎んじられていた。
秋の遠足の時に級長をしていた向田さんに大量のあたたかいゆでたまごをI(あいさん)の母親から渡され、この時の戸惑いやその後の母親の姿が忘れられず、向田さんは「愛」という字を見ていると、なぜかこの時のねずみ色の汚れた風呂敷とゆでたまごのぬく味、それにいつまでも遠足を見送る母親の姿が忘れられないそうです。
向田さんにとって「愛」とは、ぬくもりであり、小さな勇気であり、自然の衝動です。愛のイメージは、このとおり「小さな部分」なのです。
作家 向田邦子さんのプロフィール
1929年東京生まれ。放送作家としてラジオ・テレビで活躍。「だいこんの花」「寺内貫太郎一家」等。1980年に短篇小説「思い出トランプ」で直木賞受賞したが、81年8月飛行機事故で急逝。『父の詫び状』等。
最後に
加畑先生は講演の終わりのほうで芥川賞作家の若竹千佐子さんを取り上げ、若竹さんがNHK番組「あさイチ」で「生きがいの見つけ方」に登場したときに大事なことを語ったと言ってます。
それは
生きがい探しだから、本音で書く。そして自分の言葉を見つける。
最初はすごく反発していたんですよ。「お前の小説は『うたいすぎる』」と言われたけど、意味がわからなくて。だいぶ後に、私は悲しいことを「こんなに悲しい」と書いていたことに気がつきました。それではうまく伝わらないんですよね。
悲しんでいる自分を遠くから見て、ちょっと笑える視点を持てた時に、書くものも変わってきた気がします。
以上が加畑先生の講演内容の要約?ですが、分かりやすく伝えるって難しい。
また先生の講演には芥川賞作家が多く登場しますね。
加畑先生お疲れさまでございました。
有難うございました。
山中先生は昨年、昔の富田林の災害史についてご講演いただき今回で2回目。今回は富田林市域の寺子屋などについて豊富な資料でご説明。
(字が小さくて大変でしたけど・・・)
(先に、寺子屋とはを簡単に説明します)
寺子屋とは、子どもなどに文字の読み書き、場所によってはそろばんを教える庶民の施設のこと。江戸はもちろん、全国の町や村にありました。天保期(1830~1844)には著しく増加し、正確な数は不明ですが幕末になると全国で15000以上も存在していたといわれる。(出典:Wikipediaより)
(以下はレジュメなどから要約)
Ⅰ.「学び」と寺子屋の登場
1.「学び」の形成をうながしたものー近世社会と文字能力
①近世社会 文書による伝達の社会・・・江戸時代に初めて本が出版、それまでは写本 兵農分離
②商品流通の発展 江戸大坂間を代表とする商品流通
富田林は河内モメン、酒、菜種、たばこ
③子どもの社会的能力(読み書き計算を主とする)獲得の必要性 家の確立と継承観
2.寺子屋の社会的形成ー元禄・享保期ー
①子どもを見る目の変化 西鶴「世間胸算用」にみる子ども観
②往来物出版と大阪の出版文化
近世社会に対応した新たな寺子屋 の登場
③商家内教育 奉公人制度
3.寺子屋の展開
①大坂の場合
「仮名手本忠臣蔵」1748年竹本座初演 『難波丸網目」手習所数千軒余り、記すことあたわず
②大坂寺子屋の特質 男女比(男60%、女40% 全国平均は4対1)
共学率(100%、全国平均62.5%)
大坂600町に寺子屋が1200軒、つまり1町に2軒あったといわれている。
Ⅱ.寺子屋では何をどのように学んだか
①寺入り
学校との大きな違いは師匠と寺子の個人的な人間関係を結び、同時に「寺子中」という仲間に入る。
また年齢・学力・能力・家業の異なる様々な子どもたちが自学自習しあう場。
読み書きだけではなく、立居振る舞い、言葉使い等々社会の中で生きていくために必要なことを
習得する「学び」の場であるとともに「遊び」の場であり、「寺子中」という仲間を形成する場。
②学びの諸相
習字、読書、そろばん、裁縫、謡、夜学もありまた目や耳の不自由な子どもへ特別指導もあった。
Ⅲ.富田林地域における寺子屋と商家における子女の「仕込方」
―富田林と佐渡屋徳兵衛家・杉山家を中心にー
1.大阪周辺地域の寺子屋
①南河内地域の文字学習の胎動
②富田林の寺子屋 <筆子塚>ふでこづかの多さ
筆子塚とは師匠が亡くなった時に、その師匠に学んだ者たちが師匠の墓を共同で建てたもの。
・師匠と寺子との人間関係。修行した後も長く続いた子弟関係。
・家や子どもたちの学習需要の高さ。
・寺子屋が営業として成立。
・「門弟中」「寺子中」という仲間意識。
2.商家における子女の「仕込」
①佐渡屋(仲村家)・杉山家における子女の「仕込」
子どもたちの稽古
男子: 手習い・謡・仕舞・茶・花・そろばん・素続
女子: 手習い・琴・三味線・裁縫
②大坂寺子屋への寄宿生活
・仲村家(富田林)・西尾家(国分)・清水(古市)・サク女(羽曳野)など。
・寺子屋が子育てと教育の両方を担う。師匠の存在と役割。
Ⅳ.おわりに
明治5年(1872)4月 過渡的形態として大半の寺子屋は郷学校へ統合されて廃絶。
明治7年小学校就学率 東京57.5% 京都51.3% 大阪34.9%
寺子屋の時代から学校教育の時代へ。
掲載した画像は上段が山中先生。下段左は山中先生が持参された多くの古文書。右はそのうちの折手本(書画の手本)
筆子塚
寺子屋の先生のお墓です。天明(1781)~寛政期(1801)頃の漢学の先生ですが寺子の指導もされていました。没年文化三(1806)。 明治5年に学制が公布され、小学校・中学校の今の教育制度の基礎ができる前は、お寺の住職や、神主、町の国学・儒学の先生、あるいは村の有力者が、地元の子供たちを有料で指導していました。今の学校のような全体教育ではなく、先生と生徒がひとりひとり相対して指導する形=個人レッスン(子弟制度)であったため、こういうような先生のお墓を生徒たちが建立する形になったのではないでしょうか。
富田林市だけでも50基以上確認されています。中には、「門弟中」「門人中」「弟子中」「寺子中」と基礎部分に彫られているものもあります。師弟制度でありますので、腕白坊主には「破門」もあったのではないのでしょうか。
(いつもお世話になっている富田林文化財保護審議会委員 林保夫氏の富田林百景HPからそのまま引用させていただきました。)
以上です。
寺子屋って子どもから成人まで、男女を問わず、入学随時、子弟関係などかなりおおらかでいい仕組みだったのですね。
また、富田林地域は前向きに学問等を志す人が多く、資料から見ると喜志をはじめとした17村に56箇所もあり、府下でも相当文化・学術的に高いレベルにあったことが分かります。
先生の丁寧なご講義と貴重な資料の提供、多くの古文書閲覧、いい勉強させてもらいました。
先生有難うございました。
(担当:高松)
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