講義前に午前中の講義と、午後の街歩きの説明がありました。
南河内近代の幕開け「河南鉄道」 座学 講師 元神戸薬科大学講師 松本 弘先生
昔は阿倍野橋は遠かった。
今は富田林から、大阪阿倍野橋へ近鉄1本で行けるが、当時は柏原に出て、大阪鉄道で天王寺まで出るしかなかった。
近鉄柏原線、長野線は、富田林に本社を置く河南鉄道が前身で、大阪では南海阪堺線に次ぐ古さの鉄道で、当時は蒸気機関車だったため、路線は火の粉が気にならない石川沿いに建設された。富田林駅は、寺内町の裏は断崖であることと、寺内町を避けるため、かなり石川から離れたところに駅舎が作られた。河南鉄道はその後大阪鉄道と改称し、大阪の中心阿倍野に延長されたが、片町線で大阪進出をしていた関西鉄道に吸収され、さらに後から設立された大阪軌道(大軌)に吸収され、近畿日本鉄道に発展する。
午後は、午前の講義で学んだ旧河南鉄道に乗って、柏原の歴史散策です。座学をフィールドワークで確認できる体験です。
1,旧河南鉄道に乗って柏原駅に移動
喜志駅でのエピソード
喜志駅で落語家桂文之助師匠に遭遇。2班谷さんの近所にお住まいだそうです。桂枝雀の弟子で、桂雀松より大名跡4代桂文之助を襲名された方です。
2,旧河南鉄道に乗って
柏原駅に向かう電車は午前の講義の復習でした。
河南鉄道の大和川鉄橋を渡りました。
河南鉄道創業時は左記のようにSLでしたが、同じ鉄橋を124年ぶりに渡りました。講義で学んだことをすぐに体験できる素晴らしい企画です。ありがとうございます。
明治時代に撮影された大和川橋梁です。
橋脚は、鋳鉄管柱を使用されていますが後にコンクリ-トで補強されました。 道明寺方下流側より撮られている。後方に写ってる木製の柱は東高野街道「新大和橋」です。
出典;松永白州記念館のご紹介 河陽鉄道・河南鉄道・大阪鉄道史(現近鉄南大阪線、柏原線、長野線)
3,高井田駅で下車
柏原駅から旧初代大阪鉄道(現関西本線→大和路線)で比較的新しい高井田駅へ到着。
トンカレの皆さんは、大和川の南の人が多いので柏原へ来られたことがない人が多いようです。
本日午後の案内をしていただく「おいなーれ柏原」のガイドの皆様と合流しました。
4,高井田横穴
古墳時代後期の横穴墓群。
4支群、推定総数約200基を数え、うち27基の横穴で線刻壁画(人物、馬、鳥、家、舟など)が確認されている。古くから「人物の窟」「花の窟」として壁画の存在は知られていたようだ。出土した須恵器などから造営時期は6世紀中頃~7世紀前半と考えられる。
出典;ウィキペディア 高井田横穴
5,柏原歴史資料館
聖徳太子伝説と真実展が開催されていた。
到着後、すぐに安村館長より聖徳太子にまつわる棺の講義があった。
その後関連の展示物を、ガイドさんの説明で見学した。
出典;柏原歴史資料館 春季企画展 「聖徳太子の伝説と真実-柏原・王寺・三郷の道と寺-」
パンフレット
安村館長の講義内容
聖徳太子の棺…安福寺來紵棺、叡福寺書状(以上安福寺所蔵)、聖徳太子墓來紵棺復元模型(当館所蔵)をじっくり見て欲しい。
玉手山にある安福寺の先代の住職が、花瓶敷に利用されていたものを関西大学の学生が、來紵棺と気づき、発見された。聖徳太子のお墓だとされる叡福寺北古墳の中からも夾紵の破片が発見されたことと、夾紵棺板の寸法と叡福寺棺の寸法がほぼ一致していること、また日本で夾紵棺が確認されている①斉明天皇が被葬者と考えられる牽牛子塚古墳、②天武天皇が被葬者と考えられる野口王墓、③中臣鎌足が被葬者と考えられる阿武山古墳等の被葬者がいずれも高貴なお方なので聖徳太子の棺との関連が注目される。
さらに聖徳太子との関連を証明するために、現在安福寺と叡福寺の関連性を研究されている。
注;夾紵棺とは、夾紵(きょうちょ、麻布)を漆で貼り重ねる技法によって作られた棺の一種である。
6,鳥坂寺跡
「高井田廃寺」の遺跡範囲内の井戸から、「鳥坂寺」と墨書した10世紀初めの土器が発見されました。これにより、この廃寺が河内六寺の「鳥坂寺」と呼ばれていたことがほぼ確実となった。
7,再び旧河南鉄道に乗って帰路へ
エピソード
「おいなーれ柏原」ガイドヘルパーの白髪の女性の方とおしゃべりをしていて、老人以外にも若い人も案内するのですかと聞くと、ご年配の方々ばかりです。なぜかと言うと「老いなーれ柏原」ですと答えられた。
おいなーれ柏原の皆様、ありがとうございました。
心温まるジョークでした。
適度な疲労と満足感でみんな帰路につきました。(完)
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